「幸せ」基準の「合理」主義 ~ newsletter no.200 によせて 〜

*この文章は,newsletter no.200(2021/5/22配信)に寄せて書き下ろしたものに加筆・修正したものです。
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ヨガやヨガをしている人について何か「スピリチュアル」で「ふわっと」した印象を持っている/いた方もいらっしゃるかもしれませんけれど,
長くわたしをご存知の方,わたしが媒介となってお伝えしているヨガに触れていらっしゃる方,nidaに通われている方ほど,
もうそのイメージが薄れてきていらっしゃることと思います(笑)

ヨガは,ふわっとした「スピリチュアル」な「精神論」ではまったくありません。

もちろん,「スピリチュアル」な側面「も」大いに含んでますよ。

でも,それだけではなく,ものすごく「リアル」で「実用的」だと思っています。


わたしね,だからやってるんです。
そして,自然にヨガの先生になって行ったんです。


だって,わたし,基本的に超「合理」主義者ですから!(笑)


「合理主義」というのは,要は
「感覚・感情・慣習・常識などにとらわれず,理性的に割り切って最も効率的な手段を選択する」
みたいな姿勢のことですよね。

だから,感情的には割り切れないようなことも,理性的な判断で選択する「合理的」な人は,
往々にして他の人には「冷徹」とか「心がない」ように映ったりするのでしょう。


しかし,そもそも「合理」というのは「理に合うこと」ですよね。

論理的にかなっていること,無駄なく効率的なこと。


わたしね,その意味では,「無駄なく効率的なこと」を判断するときの基準になるのは
「理性」,つまり,頭で「考えた」ことだけではないと思ってるんです。

だって,真の「理」(ことわり)というのは,そもそも頭だけで理解できるものじゃないと思っているからです。

さらにはっきり言ってしまえば,「合理」の「理」をどのような基準で捉えるかによって,
どんなに「理性的」に選択したことのはずでも,実はまったく「合理的」ではなくなってしまうことすらあると思うんです。


それって,誰しも経験のあることだと思うんですよね。


仕事でも人間関係でも,あるいは日常のささいな行為についてでも何でもいいんですけど…
「理性的に」頭で考え,常識に照らして,最も「合理的」,「最善」という選択肢をとったつもりなのに
なぜかうまく行かなかったり,結果的に「無駄」になったり…
そういう経験ありませんか?
(わたしは散々あります(笑))

逆に,一見「合理主義」とはかけ離れた選択,
つまり,頭で考えたらバカだなぁとわかっているのに,あるいは,自分でも理由がわからないのに,
それをやった結果,うまく行ったり,思わぬ大収穫につながったり…
そういう経験ありませんか?
(わたしはここのところもう何年もこんなことばっかりです(笑))


この場合,「理性」「思考」を基準とした「理」で言うのならば,
もちろん前者が「合理的」であり,後者が「非合理的」な判断になります。


でもね,基準となる「理」―物差しが変わったなら,
前者が「非合理的」であり,後者が「合理的」な判断と言えるんじゃないかな~
と思うんですよ。


この,わたしの意味するところの基準というのは,いわば

「幸せ」

とでも言うべきものです。


ハッピーかどうか?

心地よいかどうか?


「無駄」ってね,よく,お金とか時間とか労力とかについて語られますよね。
通常,そういう,数値化しやすいような,わかりやすい物差しが「理性的」判断の基準とされます。

いわゆる「ビジネス」というのはまさにそこの「合理主義」で動いているわけですね。
金銭的利益を最大にすべく,みんな必死に考え,それを実行しているわけです。


でも実際,お金をどんなに稼いでも「幸せ」でない人はたくさんいます。

そういう人たちは,「理性」という物差しでは確かに「合理的」な生き方を選択しているのでしょう。

でも,もし「幸せ」という物差しで考えたのなら,それは「非合理的」なんじゃないかとわたしは思うわけですよ。


そして,わたし自身がこの10年ほどあらゆる行動原「理」としているのは,まさにこれです。


いわば,わたしは,

「幸せ」基準の超「合理」主義者

というわけです(笑)


そう言い切ると,今度は…

「自分の「幸せ」のためなら他人を「不幸」にしてもいいのか?!」
みたいな話が持ち上がるかもしれませんねえ。


これについてわたしなりにお答えすると…

あの,もしあなたの「せい」で他人が「不幸」になったら,あなたは本当に「幸せ」になりますか?

…ならないですよね。

だとしたら,それはやはり「幸せ」基準の「理」に照らすなら,「非合理的」だと思いますね。
ずっとトゲが刺さったまま生きるというのはむしろ「無駄」が多くなると言えるかと。


ただ,さらに付け足してお話ししておくと…


一般的に言う個々の「幸/不幸」というのは,あくまでも主観に基づくものですね。
誰かが「アイツのせいで…」と恨んだりして「不幸」に陥るというのは,あくまでもその人の選択です。
だって,同じことを経験しても,「ま,いっか(笑)」で済む人もいるわけですから(笑)

だから,結果的に誰かに恨まれたりすることになったとしても,
それは必ずしも単純に他人を「不幸」にしたという話にはならないんじゃないかなあと
わたしは思っているんです。


逆に例えば,何かの選択を迫られた時,自分の中で納得していない,居心地よくないのに,
「理性」に基づいてこっちが「合理的」だと選んだ結果,まったく「幸せ」と感じられない場合,
あなたが我慢すれば周りの人は「幸せ」なんでしょうか?

本当に?

そうじゃなかった経験,ありませんか?
(わたしは散々ありましたけど(笑))

本当はこうしたいけど… あの人のために!とか,周りから悪く言われないように!とか思って選択した結果,
自分が「幸せ」を感じられない場合,それ,周りにも伝わりますよね?

あるいは,立場をひっくり返すと,
そういう相手を見ていていたたまれない思いをしたことってありませんか?


「幸せ」というのは確かにあくまでも「主観」かもしれませんが,
他人の「不幸」というとき,おそらくたいていの場合,
そもそもそれは「理性」に照らして感じているものなのではないでしょうか?

つまりね,

「こうなるはずだったのに…」
「あの人はこうすべきなのに…」
―ということに執着し,それに照らして考えているから「不幸」になるのでは?

と申し上げているわけです。


偉大なヨギたちは,わたしたちの本質は「至福」そのものだと伝えています。
そして,その「至福」というのは,わたしたちが考え,体験する,日常的な「幸せ」を遥かに凌ぐ圧倒的なものだと。

わたしがここで話している「幸せ」というのは,
ダイレクトにそこまで圧倒的なものでなかったとしても,
確かにその「至福」につながっている「幸せ」です。

それは,頭で考えて「理性的」に測れるものとか,常識に乗っ取って判断できるものとか,
執着に基づくもの(つまり,「あれがほしい~!」と追って手に入れて満足,みたいな(そして大抵すぐ飽きる(笑)叶わなければ不満に変わる))とかではなくて。

頭で考えてもわかんないけど,「理性」以上に「感覚」がyes!って言っているような―
いやむしろ,「理性」とか「感覚」とかの境界さえ超えて,自分の中のより深い部分で圧倒的に納得してしまっているような―
そういう「幸せ」です。
(…それは,ことばで言い表すのには限界があるのは承知ですが,でもまあ何となく伝わっていたらいいなあと思って書いています。)

わたしがここでお話ししているのは,そういう「幸せ」基準の「合理」主義についてです。

だから,「わたしだけお金が儲かればいいわ!」とかいうような「幸せ」の話ではないわけです。


同時に,一方では「愛があれば幸せ!」みたいな話でもないと思ってますよ。

そう「思い込んで」,何かに罪悪感を感じたり,何かを我慢したりするのであれば,
それって「幸せ」じゃないんじゃないですか?って思いますから。


逆にね,「幸せ」基準の「理」で言えば,
たとえ他人に何と言われても,
あなたがより深い部分で納得し,それを「選ばざるを得ない」圧倒的な何かに突き動かされてした選択は,
その結果がどうであれ,あなたは後悔しないどころか,
「わたしは生きている!」という強い実感,
この人生を生きるべくして生きているんだという,根拠なく,でもなぜか圧倒的な「幸せ」を感じるはずです。

そして,往々にして,それは周りを巻き込んで「幸せ」にし,
お金や信頼や,そういう測れるもの,形のあるもの,目に見えるものも,自ずとついてくるでしょう。

わたしね,それって,超「合理」的じゃない?!と思うわけですよ。

そして,それは結果的には,愛かお金か?とか,理性か感覚か?とか,
そんな区別も自ずと超越していくと思っているんです。


非常に卑近なレベルで言えばね,わたしは,食器を洗う時に
どんな順番で洗うか,どんな順番で流すか,すすいだあとどんなふうに並べていくか…
全部計算してやっている人間ですよ(笑)
(はい。そういうちょっと(?)ケッペキなところがあるのも自覚しております(笑))

そういうレベルでは,確かに,わたしは「理性」基準でも相当「合理」主義者だと思います(笑)

でも同時に,例えば自分の思った通りに食器洗いができなかった場合に
イライラしたり,怒ったりするということはまったくありません。

なぜならその,いわば限定的な「理性」基準の「合理」主義者である前に,
根本的にわたしは,もう一段レイヤーが上の,あるいはより包括的な「幸せ」基準の「合理」主義者だからです。
「理性」的に「非合理」なことに対してイライラし,それを正そうとするのは当然の,「合理的」なことかもしれませんが,
「幸せ」基準でみれば,自身の居心地の良さを損なう方がよほど「非合理的」で「無駄」ですから,わたしはやりたくないのです(笑)


これがわたしの行動原「理」とでもいうべき「合理性」です。


だからまあ,言ってみれば,ダブルの「合理」主義の構えってことにもなりますね~

常にお話ししている通り,「どっちかじゃなくてどっちも」というわけです(笑)

ただ,いわばどっちがメタか,包括的か,というのが明確なだけ。


だから,例えばお金だけで判断できるようなシンプルな「合理性」ではないのですが,
お金「も」入ってくることにはなるわけです。

その意味では,全然「スピリチュアル」なだけじゃない。
「ふわっと」なんてしていません。

超「リアル」ですよ(笑)
めっちゃ「実用的」です。

つまり,この身体を持った形ある現実世界でばっちり使える原理なんです!


これがわたしの行動原理としている「したたかな」二段構えの「合理」主義です(笑)


それに則って,わたしはヨガを続けてきたし,ヨガの先生になったし,
海外で学び続けてきたし,ベジタリアンにもなったし,山登りもし始めたし…

しごとや人間関係はもちろん,恋愛や食器洗いや洗濯に至るまで(笑)
すべてに通底して応用し続けているわたしの行動指針です。

実際にこれで10年生きてきて,めっちゃ「合理的」だから採用し続けているんです。


そして,自身の経験をもとにますます強い確信を得ているからこそ,
パンデミックがどうとかいうよりも先に,この根本にあるヨガ哲学をどんどんお伝えした方が「合理的」なのではないかなあと,
この状況下でも,いやむしろ,今だからこそお伝えして,もしそれに納得されたのであればどんどん使っていただいた方が「合理的」なのではないかなあと感じているのです。

だから,わたしは(現実的に可能なやり方に基づいて)活動を制約する気にならないし,むしろ「吹っ切れて」きています(笑)



では,あなたの行動原理は何ですか?


その行動原理で生きてきて,ここまでの手応えは?


あなたはそれに納得していますか?


これからも採用し続けて行きたいものですか?



ここでは,こんな行動指針もアリ!こんなんでかなりラクに楽しく生きられますよ~^ ^という指針の例をシェアしたまで。

わたしはこんな感じでこれからも,わたしなりに超「合理的」にハッピーに生き続けていくことを決めているし,
わたしがクラスを通じてシェアし続けている基本もまさにこれなのですが…

それをどう感じるかは,あなたにお任せです^ ^



あ,でもね,最後にもう一つだけ付け加えさせてください。


さっき,
「偉大なヨギたちは,わたしたちの本質は「至福」そのものだと伝えています。」
と書きました。

この偉大なヨギたちの教えというのは,つまり

「真理」

ということです。

真の「理」―言い換えると,一見あやしいかもしれませんけれど(笑)
それって要は「宇宙の法則」,あるいは「絶対的な原理」ってことです。


それならね,わたしがここでお話ししている
「ダイレクトにそこまで圧倒的なものでなかったとしても,確かにその「至福」につながっている「幸せ」」って,
その「真理」につながっているもの,ということになるでしょう?


最初の方で「真の「理」というのは,そもそも頭だけで理解できるものじゃない」(つまり,「理性」だけでは捉えきれない)と書きましたけれど,
同時に,これもまた先に述べたように,そういう「幸せ」に「お金や信頼や,そういう測れるもの,形のあるもの,目に見えるものも,自ずとついてくる」のって,当然だと思いません?


だって,真「理」に則ってるのですから!


それこそ超「合理」的ってことになるじゃないですか。


つまり,ここでわたしのお話ししている「幸せ」基準の「合理」主義というのは,
言い換えれば,

「真理」に根ざした「合理主義」

と換言してもおかしくないものではないかと感じています。


だから,通用するのです。

というか,通用しなければおかしいですよね。
だって,「真理」につながっているんだもん(笑)

で,「実際にこれで10年生きてきて,めっちゃ「合理的」だから採用し続けているんです」よ(笑)



―と話を敷衍したところで,この文章を結びたいと思います。



長くなりましたが…
(これでも本当はまだ言い尽くせていないことばかりだなあと感じてはいるのですけれど(笑)
…まあ,それはまたのんびりコツコツnewsletterやクラス等で小出しにして行きますので~) 


ご静聴いただき,本当にありがとうございます(合掌)



心より愛と感謝を込めて

yukari