「不或(不惑)」,そして「知天命」へ(nida’s newsletter- no.73-より)
*こちらの記事は 2018.06.08配信の,nida’s newsletter~ living in the moment ~- no.73-より抜粋して引用したものを以下に掲載しています。
わたしは昨年「不惑」の歳に至りました。
そう,中国の思想家,孔子の「四十にして惑わず(四十不惑)」ってやつです。
でもね,最近,あの「不惑」の「惑」という字,孔子の時代にはまだなくて,
当時は「不或」だったという,大変興味深い事実を知りました。
「或」は,今で言う「枠」。
つまり,「惑わず」どころか,
「枠にはまらない」こと,「自分の枠をさらに広げる」ということなのだそうです。
孔子自身,文人としてだけでなく,武人としても,
さらには,音楽家,料理人,教師としても優れていたそうです。
「ありとあらゆるものを身につける,それが五十歳までの孔子がしたことです。
これらは「天命を知る」ための素材です。」
(安田登『あわいの時代の『論語』―ヒューマン2.0』春秋社 p.210)
そう,その先に
「五十にして天命を知る(五十而知天命)」がやって来るのです。
そして,この「天命」こそが,ヨガの観点からもますます興味深いものだったのです!
かつて,中国では「天」は王だけのものでした。
「天命」とは,「王朝を創始しせよ/継いでよし」という王だけに与えられる許可でした。
だから,王でもない
「孔子の「五十にして天命を知る」は,『論語』の中でもっとも危険な言葉であり,
それまでの世界を一変させてしまうほどの革新的な発言だったのです。
…孔子は,王だけのものであった「天命」を,ふつうの人にも解放しました」。(p.202)
つまり,この「天命」は,王朝の創始や継承とは違ったもの。
安田さんはこう続けます。
「孔子がいうように,全ての人の中に天命があるのならば,
人は生まれながらにして「神からの大命」,すなわち「元型としての刻印」を持っているということであり,
全ての人の中に神(帝)は宿るということになります。」(p. 206)
つまり,孔子は「「神は自身の中にこそおわします」,そう気づいた」(p.207)のです。
安田さんは,この孔子の「天」についての気づきは,
日本の身近な事象とつながっていることにも言及しています。
「神社に参詣すると,その御神体として鏡が置かれていることに気づきます。
私たちは神社で手を合わせるときに,自分の姿に向かって手を合わせています。
まるで自分の中にいる神に手を合わせているかのようです。」(p.207)
「天」,「神」,「宇宙」,「大いなるもの」…呼び方は何でもいいんです。
そして,それは結局,ヨガが「シヴァ」とか「大いなる意識」とか呼ぶものと同じ。
孔子が見出していた真理も,実は,ヨガと同じところに行き着くものだったのです。
そして,古くから日本の人たちが見出してきた道もまた同じところに向かうものでした。
国を超え,宗教を超え,それぞれがいいなと思う道で共通する真理へ,
孔子の言葉を借りるのなら「天」へと進んでいけばいいのではないでしょうか。
そして,みなさんは今,その道の一つであるヨガと出会っているわけです。
「五十」と言う年齢の前後にかかわらず,
わたしの中に「天」が宿っていることを真に認識するために,
今日もまたこの「天命を知る」道を,
ヨガの道を,
一歩一歩ともに進んで行きましょう。
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こちらの記事は毎週金曜配信のnida’s newsletter ~ living in the moment ~より一部抜粋です。
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