「違い」をたのしみ,「一つ」へ向かう(nida’s newsletter- no.10-より)
*こちらの記事は 2017.03.24配信の,nida’s newsletter~ living in the moment ~- no.10-より抜粋して引用したものを以下に掲載しています。
わたしたちの世界は「違い」に溢れています。
わたし と あなた とは,
わたしの認識するわたし と あなたの認識するわたし とは,明らかに「違う」…
人間って,「分ける」のが得意なんですよね。
ことばってまさにそのためのもの。
名前をつけることによって,これとあれは別物,ということを示すわけです。
歴史が進むにつれて,その傾向は一層強くなってきたと言えると思います。
さまざまな発見に伴い,名前は増える一方。
あらゆるものを細分化して個々に見ることが主流になって行ったわけです。
その結果としてのさまざまな科学的進歩にわたしたちは,大きな恩恵も受けています。
でも,「違い」って,ときどきわたしたちを不安にさせたり,孤独にさせたりしませんか?
特に,日本人はその傾向が強いかも?という気さえします。
ヨガ哲学にも色々な見方があって。
こうした,わたしたちの目に見える世界における,さまざまな「違い」はすべて「幻」であり,真実はただ「一つ」,とする見方もあります。
昨年インドに行った時にお世話になったアシュラムの長,
あるとき,美しい庭の花を見ながら,友人にこう話したそうです。
“This is beautiful. I am beautiful.
ファファファファファ~(笑い声)”
白いお髭のサンタクロースのような,すてきなスワミジでした。
みんな同じもの。
みんな美しい。
だからわたしも美しい。
この考え方自体,とっても美しいなーと思います。
一方,わたしが主に学んでいる哲学では,いわばこんなふうに考えるわけです。
いやいや,「違い」はあるでしょ。確かに。
あなた と わたし,確かに違うでしょ(笑)
って。
わたしたちには,「身体」がありますからね。
皮膚は「境界」をつくり,他のものや人との「違い」を生み出しています。
同時に,その「違い」というのは,あくまでも大いなる「一つ」の「あらわれ方」の違い。
だから,むしろその「違い」を「足がかり」にして,源である「一つ」へと戻っていきましょう,って。
でも,そうだとしたら…
なんで「違い」を「足かせ」のように感じて,「孤独」や「不安」に「苦しむ」必要があるというのでしょうか?
これらの「違い」は,いわば「一つ」の創造性の「あらわれ」であって,別に「苦しみ」を経験させるために与えられてるわけじゃないんじゃないの?
だったら,この「違い」は「幻」でもないし,「苦しみ」である必要もないはず。
この「違い」に溢れた世界の中の人生だって,大いに楽しんだらいい!
もし,この「違い」に埋もれて,苦しむだけで生きるのならば,それこそ「幻」と言うべきものの中で,さまよっているだけになってしまうでしょうね。
それではもったいないと思いませんか?
それより,せっかく大いなる「一つ」によって「違い」を与えられて,それぞれの身体を持って生きているのだから,「違い」を大いに楽しんで生きましょう!
そして同時に,それを「足かせ」ではなくむしろ「足がかり」として,すべてのものの源,わたしたち一人一人もその「あらわれ」である大いなる「一つ」へと戻って行くこともしちゃいましょう!,と。
つまり,
「分ける」だけじゃなくて,「つなぐ」ことも同時にpracticeしましょう,ってことで!みたいな。
わたしは,このアプローチが,実践的で,したたか(笑)で…わたしには合ってるなーと思うから,選んでいます。
あくまでも,ご参考までに^ ^
どの哲学も,どの見方もすてきです。
すべての「違い」がすてきです。
あなたも本当にすてきです。
(ファファファファファ~…(笑))
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こちらの記事は毎週金曜配信のnida’s newsletter ~ living in the moment ~より一部抜粋です。
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