3つのmala-1. Karma mala(nida’s newsletter- no.15-より)

*こちらの記事は 2017.04.28配信の,nida’s newsletter~ living in the moment ~- no.15-より抜粋して引用したものを以下に掲載しています。


わたしの師匠Emilyが,4/8-9の初来日ワークショップでテーマに取り上げてくれたのは

「3つのmala」。

malaといえば,108粒のビーズからなる数珠もマラと言いますけど,このmalaは,そうではなく,ヨガ哲学における概念の一つです。


Emilyが教えてくれたのは,malaというのは「塵」。


目の前に,鏡があるとして。
鏡がきれいなら,そのままの姿が映りますよね。

でも,鏡にたくさん塵がついていると?
その鏡には,真の姿は映らないわけです。

malaとはつまり,このように
わたしたちが自身の本来の姿を観ることができない,その原因となっている「塵」のことです。


malaには3つあると言われます。

 1, Karma mala
 2. Anava mala
 3. Mayiya mala

今回はこのうちの1つめ,Karma malaについてお話ししますね。
(ワークショップ参加者のみなさんには復習となりますが。)


Karmaとは「行為」のことです。
つまり,Karma malaとは,行為についての「塵」です。


わたしたちって,通常,

「わたしが歩く」
「わたしが考える」
「わたしが服を買う」
「わたしがこの靴を持っている」
「わたしが悲しみを感じている」

…などと思って,行為していますよね。

それって,普通でしょう?


でも,これはもうKarma malaに覆われた状態なんです。

「自分が行為者である」と考えていること。
これこそまさにKarma malaの結果です。


・・・・・は?!


…ですよねえ~(笑)

では,逆をお話しますね。


例えば,わたしの頭に真っ先に浮かんだ例は,マザーテレサの活動です。

彼女が死にゆく人たちのために行為しているとき,彼女は,
「自分がこの人たちのために~してあげている」と感じていたと思いますか?

おそらく,No。


そのような行為をしている時,彼女という行為者の感覚はなく,
自分はただ神の望むままに行為しているにすぎない,という感覚だったのだと思います。

「私は道具に過ぎません。神の手のひらの中にある小さな鉛筆のようなものです。」

という彼女自身のことばも,それを端的に示していると思います。


もちろん,彼女の内にはたくさんの苦悩があったはず。

でも,このことばのように自身の行為を感じるとき,それはまさに,Karma malaが取り除かれた状態と言えるかと思います。


つまり,Karma malaが取り除かれた状態での行為においては,

「行為者は自分ではない」のです。

「本当の行為者」が誰かを知っていて,自分はその媒介として行為している,
という状態です。


先週,わたしは,EmilyのWSを主催したことについて,こんなふうに書きました。


「それはいわば「小さなわたし」の小さな願望,つまり,

「あれが欲しいなあ」とか「こうなりたいなあ」とかいうegoのレベルでの「夢」という感じでは全くなかったんです。

そうではなくて,「もっと大きなわたし」のレベルでの,

「やりたい」というよりも「やることになっている」「やらなければ」という感覚だったんです。」

「あえて言うのなら, “mission(使命)”という語が近いかと思います。」


…と。

奇しくも,この,「大きなわたし」としての”mission”という感覚を伴う行為は,
Karma malaが多少なりとも取り除かれた状態,ということになっていたようです。


少しずつでもKarma malaを取り去られて行くことで,「わたしのmissionとは何か」がみえて来る。

たとえほんの少しずつでも,そうやってKarma malaを取り除きながら進んで行く。


その先で真実を映し出す鏡を覗き込んだとき,そこに映る真実のわたしの姿と出会うために。

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こちらの記事は毎週金曜配信のnida’s newsletter ~ living in the moment ~より一部抜粋です。
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