お互いの内に神を観なさい(nida’s newsletter- no.69-より)

*こちらの記事は 2018.05.11配信の,nida’s newsletter~ living in the moment ~- no.69-より抜粋して引用したものを以下に掲載しています。


ごはんを食べ始めるとき,「いただきます」って言うじゃないですか。


これについて外国人に説明するときに

「これは,いのちをいただきます,っていう意味なんだよ」と話したりするのですが…


最近わたしは,

「シヴァをいただきます」

と思って/言って食べ始めています。


「シヴァ」は「すべて」を表します。


それは,神,宇宙,大いなるもの…何と言い換えてもかまいません。


あるいは,そういうものを一切信じられない人は,

万物の最小単位,素粒子(さらに踏み込みたい方は11次元のヒモでも何でもどうぞ(笑))とかでもいいかもしれません。


ですから,わたしが食べているのは,

野菜だろうとお米だろうとパンだろうと

何であろうとシヴァです。


そして,食べているわたし自身もシヴァです。


その味がわかるわたしの味覚もシヴァです。


「おいしいなあ」という気持ちもシヴァです。


つまり,食べているわたしも,食べられているものも,食べたり味わったりできる力も

すべてシヴァなのです。


それを思い出すために,「シヴァをいただきます」って食べているんです。


わたしの先生の先生,バーバ・ムクタナンダのとてもシンプルで大切な教えは


「お互いのうちに神を観なさい」(Paraspara devo bhava.)

あなたの目の前の人の内に,あなたの大好きな人の内に,

そして,あなたの知らない人の内に,あなたの嫌いな人の内に。


あるとき,バーバにこう質問した人がいたそうです。


「もし神がどこにでも,何にでもいるのなら,

なぜわたしたちには神が見えないんでしょうか?」


バーバは,こう答えられたそうです。

「一体どんな形で神を見たいのですか?」

そして,さらにこうお話しされました。

「果物には果物として神を観るべきだし,

木には気として神を観るべきだし,

あなた自身には,あなた自身として神を観るべきですよ。」と。

「そのままの形として神を観なさい」と。


最初の質問ね,気持ちわかりますよね(笑)


同時に,裏返して言えば,それは

わたしたちが何らかの神の形を期待しているということでは?


例えば,杖を持った白ひげが生えたおじいさんとか,

神々しく輝く光のような形で。


でも,バーバの答えは極めてシンプルです。


神,シヴァ…何でもいいんですけど,

それは,あらゆる物質や現象として,

そして,わたしたちの身体として,感情として,思考として,

あらゆる形であらわれているじゃないですか!ということです。


「良し悪し」「キレイ汚い」「好き嫌い」は

人間の思考の中の価値にすぎません。


あなたの嫌いな人にはその人の形で,

ゴキブリにはゴキブリの形であらわれているだけ。


でも,その「嫌い」という価値観もまた神のあらわれなんです。

だから,何も否定する必要もないんです。

ただ経験し,認め,そのままに観たらいい。


だって,すべてがシヴァなのですから。


「お互いのうちに神を観なさい」


自分の呼吸,身体,感覚,思考…すべてがシヴァ。

マットの上でそれを体感し,認め,敬意を思い出します。


でも,マットの上でそうするのはまあ簡単ですね。


本当のpracticeは,マットの外です。


だって,他者のそれもすべてシヴァなのですから。


わたしたちはあらゆる機会に,あらゆる場所で,あらゆる対象で,

「お互いのうちに神を観る」ことをpracticeするのです。

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こちらの記事は毎週金曜配信のnida’s newsletter ~ living in the moment ~より一部抜粋です。
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