けっこう何でもできる!(後半)
さて,もう一つのポイント!
「けっこう何でもできる!」なんて言うと,なんか「強そう」に聞こえるかもしれないですけど,
私自身はむしろ「弱くなった」から,何でもチャレンジできるようになったと感じています。
あるいは,自分の「弱さ」を受け入れたから チャレンジが,というか生きて行くこと自体が楽になったと感じています。
ここで言う「弱くなった」とか「弱さ」というのは,傷つきやすさとか弱点,ということではありません。
自分の力は実は大したことはなく,小さな存在である,ということです。
もっとわかりやすく言えば,自分の力ではコントロールできないことがいっぱいある,
自分の力の及ばないもっと大きなものの中で生きている,と認めるようになったということです。
大きな川の上を流れる葉っぱみたいに。
だって,私は雨一滴降らせられないし,葉っぱ一枚創り出すこともできません。
誰と偶然出会うかなんて決められないし,一生懸命勉強したからと言って必ず試験に合格するとも限りませんし,
明日急に隕石が降って来て死ぬかもしれません。
ほら,自分の力の及ぶ範囲なんて,たかが知れてるじゃないですか。
私って弱っ!(笑)
ただし,ここで誤解していただきたくないのは,どうせ私なんて…とか,
私なんてしょせん何もできないちっぽけな存在だよ…みたいに考えているわけではないということです!
(お察しでしょうけれど。蛇足ご容赦。)
自分でできる努力はもちろん大いにします。
それはとてもとても大切なことです。
でも,それの及ばない範囲があるということを認めることが,同時に大切なんだ!と納得したのです。
私の場合,そのことによってチャレンジすることは容易になったのです。
だって,何かに心が動いたり,一緒に何かやろうと誘ってくれる人と出会ったりするのって,
自分の力のコントロール外のことでしょう?
そして,決めたら最大限取り組むわけですけど,その結果もまた,どうなるかはわからないわけでしょう?
そう考えていれば,気楽に取り組めるし, 気楽に失敗できるじゃないですか!
それに,そもそもなんで今,ここで,自分にその機会がやってくるんでしょうか?
それこそ,自分の力や考えの及ばない大きなものが,自分を導いている とも考えられるのでは?
だったら,始まりも結果も委ねて,流れに飛び来んじゃえばいいじゃん!というわけです。
私はここ数年で,そんなふうに感じ始めたのです。
特定の宗教があれば,「神様」を信じていれば、こういう考えに至るのはもっと簡単だったかもしれません。
でも,私はその真逆を生きてきました。
中高はキリスト教の学校で学びましたが,キリスト教にはあまり馴染めませんでしたし,今も特定の信仰はありません。
また,プライドが高くて,人に頼るのが嫌いで,誰かが手伝おうか?と言ってくれても「自分でやるから大丈夫」と言い,
学生時代、先輩からは「伏見さんて何か隙がない感じだよね」みたいに言われたこともありました(笑)
では,私はなんでこういうふうに生きて来られたのでしょうか?
それはたぶん,自分で何とかしなくてはいけない,自分の力でちゃんとやっていかなきゃ,
と思っていたからかも。
それがカッコいいと思って来たというか,
そうあることを期待されて来たというか,
色んな競争の中でそう考えざるを得なかったというか…
でも,今は逆にそれって実はおごった考え方なんじゃないか,という気もします。
(ただし,私はあくまでも,それを「悪い」とか否定するつもりでは全くありません!)
というよりも,そういう考えで生き続けて行くのは大変だな~と
だから,私にはもう戻れません(笑)
今は,やってみるのも流れのまま,失敗しても気にもしない,手伝ってくれる人にはあっさりお願いする,
自分にできないことは,どんどん人に頼む…
いやもう,すみませんけど,他力本願バンザイ!とでもいう具合です。
ほら,自分が思っているより,けっこう何でもできる気がしてきませんか?
私たちって,けっこうすごいんですよ! いや,ほんとに!
だまされたと思って,何か試してみてください。
だって,あなたはすばらしい可能性に満ちた存在ですから!!
おわり
↑ダイビング船から撮影した夕暮れ in Thailand