アクローダ〜怒りからの自由(追記)

「アクローダ ~怒りからの自由」
をテーマとしたクラスの中で,実は,一つのエピソードを織り込んでいました。

すでに言及した
グルマーイ・チットヴィラーサーナンダの『神は純粋な心を愛する』
に出てくる怒りについての小さな逸話を,
以下に追記しておきますね。
 
 
 
~あるヨガの修行者と洗濯屋の話(要約)~

あるとき,サードゥ(放浪して歩くヨーガの修行者)が川のほとりに座っていました。

彼は午前中とても快適に過ごしました。

清らかな流れで沐浴し,祈りを唱え,
森の木陰で精神修行を行い,
さらに,ある富裕者のもとでおいしい食事をしました。

そして今,彼は,とても満ち足りた気持ちで
昼寝をしようと,まどろみ始めていました。
 
 
そこに,汚れた服を載せた2頭のロバを連れ,
洗濯屋他がやって来るのが見えました。

サードゥは思いました。
「おお,こっちに来ないでほしい。
世間話をする気分じゃない…。
それに,あの男はひどい臭いがするに違いない。」

サードゥは素早く目を閉じました。

しかし,洗濯屋は大声でこう呼びかけてきました。
「おーい,バーバジ!
俺はうちへ帰って忘れ物を取って来なけりゃならないんだ。
 
俺が行っている間,ロバを見ていてくれないかね。

お願いだ。お前さんは聖人だ!
人助けをするはずだろう。すぐに戻ってくるから。」

サードゥは聞こえないふりをしました。
 
足音が遠ざかるのが聞こえ,
木陰で気持ちよい昼寝を始めました。
 
 
サードゥが目覚めると,すでに一時間が過ぎていて,洗濯屋が帰ってきました。

彼はサードゥの方に向かって金切り声をあげました。

「俺のロバはどこだ!」

「お前さんは俺のロバの番をしてくれるはずだったのに。
どうして見ていてくれなかったんだ。
お前さんはサードゥだろう!
俺のロバを探して,連れ戻して来い!」

サードゥは完全に怒り狂い,怒鳴り返しました。

「それが神に仕える者を扱うやり方か。
私には敬意を持って話しかけるべきだ。

おい!私を蹴るんじゃない。
私はお前のロバじゃないんだ!」

二人は大げんかを始めました。

とても健康で頑強な洗濯屋は,
ひ弱なサードゥをコテンパンにしました。

最後には,殴る方も殴られる方も完全に疲れ切って,泥の中に倒れ込みました。
 
 
一人取り残された哀れなサードゥに残っているのは怒りだけでした。

彼は,天を見上げてこう言いました。

「おお,神よ!
私は全生涯をかけてあなたを崇拝してきました。

この三十年間,一日たりとも,一晩たりとも
あなたを思わずに過ごしたことはありません。

私がやってきたことはすべてあなたのためです。

それなのに神よ,
私があなたを必要としたとき,あなたはどこにいらしたのですか 」

サードゥが不平を言うのをやめるや否や,
天から声がとどろき渡りました。

「おお,サードゥよ。

私はお前を助けたかったのだ。

私はお前に呼ばれるとすぐに来たのだ。

そしてお前を救おうとした。

しかし下を見ると,もつれ合った大きな怒りのエネルギーしか見えない。

どちらが洗濯屋でどちらがサードゥか見分けがつかなかったのだ」
 
 
グルマーイは,このエピソードの後に次のように記されています。
 
 
ひとたび怒りが噴出すると,
誰が正しくて誰が間違っているか,
誰が善人で誰がそうでないか,
識別できません。

怒りが支配するのです。

しかもそれは,あなたの存在の一つの側面を
支配するだけではありません。

怒りはすべてを支配するのです。

怒りとともに生きるのか…
それとも怒りに気づいて,捨てて行くのか…

私たちには常に選択肢があることを
いつも覚えておきます。