何もないけど全てある
今回は、混沌のインドの中で、逆にわたしが一番至福と平安を実感したことについてお話ししますね。
インド入りの後、デリーを離れてから一週間、わたしは、ヒマラヤの裾に位置する小さな街ウッタルカーシーからの中心部から車で10分ちょっとかかるところにある
小さなアシュラムに滞在していました。
(上記写真:アシュラムのすぐそばにはガンジス川の源流が流れています)
アシュラムとは、
「精神的な修行をする場所」。
宿坊を伴う、yogaの修行のための場です。
わたしたちのような外国人でも滞在し、
日々のプログラムに参加することができます。
(オレンジの布を巻いて歩いているのは、スワミと呼ばれるヒンドゥーの僧侶。)
プログラムは、アシュラムによってそれぞれ異なります。
ここでは、基本的にこんな感じ↓
5:30 マントラの詠唱
7:00 ティータイム
8:00 朝食
9:30 スワミジによる講義
12:15 昼食
15:00 ティータイム
19:00 キールタン
(楽器も合わせてマントラを詠唱)
20:30 夕食
(私が泊まっていた宿坊と、スワミジが大切にお手入れしているお庭)
毎日繰り返されるシンプルな営み。
(もちろん、スワミジが外出したり、客人があったり、日々いろいろありますが。)
食事も施設も、とてもシンプルで質素。
ごはんは毎日ほぼ同じようなカレーと炭水化物のベジミール(おいしい!)。
わたしの部屋にはベッドと棚だけ。
WiFiもテレビもない。
本当に質素な暮らしと祈りの場です。
(アシュラムでは三食ベジごはんが出ます。おいしいし、たくさんよそってくれちゃうし、体重増のまあ容易なこと…恐るべし!(笑))
そんな質素なアシュラムライフが、
わたしには本当に至福の時間でした。
ここにもっと居たいなーと感じていました。
何かが自分の中から流れ出て行ったのが自分でもわかりましたから。
その証拠に、表情が変わりましたから。
そんなアシュラムライフの中でもさらに至福と平安を感じたひと時があります。
それは、わたしがアシュラムを出る前日、アシュラムから歩いて1分の川沿いで過ごしたときのことです。
ガンジス川の源流の一つ。
きれいな冷たい水がサラサラと流れる沢。
水たまりではオタマジャクシが夏を待ち、
川向こうには木々と山々が広がります。
その日、わたしはその川近くの芝生で、マットの上で、昼食前にはポーズ練習の後に長いシャヴァーサナ、昼食後にはお昼寝をしていました。
そのときに、自分の中に湧いてきたのが、
ここには何にもない、でも、全てがある
…という明確な感覚でした。
不思議ですよね~
わたしたちは普段、いわば何でもあるところに居て、あれが足りない!これが足りない!
…て感じてるような気がするんですけどね。
だって、家族も友人も、仕事も家も、モノも情報もいわば溢れんばかりにあるところで暮らしているわけですから。
なのに、モノとかお金とか能力とか恋人とか…「足りない」ものが日々気になったりしませんか?
それが、なーーんにもないところに行ったら、逆に、ああ、全部あるんだな~なんて!
なんとアマノジャクな話!(笑)
でも、ウッタルカーシーには都会にはない自然があるじゃないか!
…ただね、結局わたしがしてたのって単に目を閉じて寝っ転がってただけなんですよね~(笑)
目を閉じて寝っ転がってただけのときにそう感じるって…
要は、わたし自身の中にもう全てあるということでしょう?
それを思い出すことがyogaをするということ。
それを思い出すために効果的なプロセスが瞑想するということ。
静かに目を閉じてみてください。
そして、何もない中に全てがあることを
アタマじゃなく他でもないあなた自身の体験として感じて/観じて行ってみてください。
そこに、限りない至福と平安がわたしたちを待っているはずだから。
Hari om
[memo] peak poses
for basic: Eka pada raja kapotanasana 1+Bekasana or Uttita Hasta Padangshtasana( knees bent)
advanced: ParivrttaPadangshtasana