歩くという自由(後編)〜歩き方を変えることは生き方を変えること〜

(photo by sono aida)
 
 
「立つ」とか「歩く」って,わたしも,生き方そのものに直結していると感じます。

だってね,立ち方や足取りを見たら,その人がどんなタイプか,とかどんな健康状態や心境なのか,とか何となく見えるでしょ?
 
 
たとえば,

すっごく自信のない人が胸を張って堂々と立ってるとか,
ものすごーく希望に満ちた明るい人が猫背で下向いて歩いてるとか…

あんまりないでしょ?(笑)
 
 
生き方が立ち方・歩き方に出るし,
立ち方・歩き方が生き方に作用しますよね。
 
 
だからこそ,何の力も使わずにだらだらと歩いているのも,

逆に,全身力んだまま肩をいからせて歩いているのも,
 
どちらも,心身双方にとっておススメじゃない気がするわけです。

リラックスと安定感と,その双方がバランスよくあったら,身体的にも,精神的にもすてきな歩み方になるんじゃないかなーと、わたしは思うのです。
 
 
内田さんたちも,こんなことを語っていますね↓
 
 
 
[成瀬] リラックスというか,力の抜き方というのは,武道でもそうですが,ヨーガでも非常に重要な要素です。

ところが,力の抜き方がわかっていない人が意外に多い。(p.165)

…グッと入れる力は大した問題ではない。
抜く力の方が大切です。(p.166)
 
 
[内田] …低刺激環境に人間を長く置いておくと,センサーが敏感になるんですね。

不快な入力がないから,センサーの感度が良くなっても,それによって不利益をこうむるということがない。

でも,逆に,都会で生活していると,センサーがいいと不快なことのほうがかえって多かったりする。

都会って,目障りなもの,耳障りなものにあふれていますからね。

うっかり感度を良くしていると,不快な刺激をもろに受け止めてしまうリスクを冒すことになる。

だから,どうしても都会生活者は防衛的になるんです。感覚を閉じてしまう。

サングラスかけて,ヘッドセットつけて,肩をいからせて,身体を硬くして,きびしい表情で,人込みを歩いてゆく。

環境との同化なんて,無理なんです。
そうなるとやっぱりコミュニケーションの感度も下がってくる。(p.174)
 
 
さらに,この部分がね,わたしはとても重要だと思うんですよ↓
 
 
[内田] たとえば,鉛直方向(重力の方向)がわからない人がいる。
ほんとうにいるんです。

合掌して呼吸するときに,地球の中心に向かって体軸をまっすぐ立てますね。

重力が働いているから,リラックスしていれば,当然体軸は鉛直方向に一致するはずなんです。

まずそうやって天地の軸を通す。
それから,東西南北を感知する。

体軸がどこにあって,重心がどこにあって,おへそがどちらの方角を向いているか。

それを点検して,空間的に自分を位置づける。

ところが,初心者には,それがもうできない人がいるんです。…(p.140)
 
 
 
大地に根を張って立ち,しっかりとしているのに軽やかな足取りで進むためには,
 
ガチガチ過ぎでもユルユル過ぎでもない,
必要最低限の力とリラックスとが同時に,
絶妙なバランスで必要ということなんじゃないかと思うのです。

そう,

どのように立ち,どのように歩くかは,
内田さんの言うとおり,わたしたち人間に与えられた「自由」だと思うのです。
 
 
お金がたくさんあって何でもできる、とかいういうことよりも、

どのように歩くかを、身体のレベル、精神のレベル、そして、生き方のレベルで選択できるということのほうが、大きな「自由」なのではないか。
 
 
yogaでは、
「わたしたちの本質は自由そのものである」
と考えます。

わたしたちにはあらゆるレベルにおいて、
もっと自由が、もっと選択肢があるのです。
 
 
みなさんは,いまどんなふうに身体を使って,どんなふうに歩いていますか?

そして,いま,その身体とともに,
どのように自身の人生を歩んでいますか?

Hari om
 
 
[memo] peak poses
for basic: Setubandhasana and variations
for advanced: Urdhva Danurasana