自分の「先生」を見つける(2)  すばらしい先生に学んだのなら

私は,これまで自分の「先生」方から本当にたくさんのものをいただいてきました。

(もちろん,家族や仲間たちからも。)

 
それはつまり,「他の人たちとシェアしなさい」と言われているのと

同義だと受け止めています。

 
もちろん,今の私には,自分の尊敬する「先生」たちのような

愛情深さも経験も知識もまだまだ備わっていないことはわかっています。

 
そして,「あの先生みたいにはとてもなれない」と以前の私だったら

考えていただろうと思います。

 
でも,今は少し違います。

自分の「先生」のように「なれるかどうか」というのではなく,

「ならなくてはならない」と思うのです。

 
「謙遜」は「美」とされますが,正直なところ,

「私なんて,あの先生みたいにはなれない」と言う方がよほど簡単だと思います。

 
もちろん,謙虚さは大切です。

もちろん,「傲慢」からそう言っているのでもありません。

自信なんてありません。

 
また,違う人間ですから,個性にも能力にも大きな違いがあります。

それももちろん承知の上です。

 
それでも,「ならなくてはならない」と考えざるをえません。

(決して嫌々,あるいは無理して「ならなきゃ!」と

考えているのではありません!

そうではなく,何といえばいいのでしょうか…

そう考えるのが自然だと感じる,というニュアンスです。

すでに述べたように,私はもう頑張れない生き方を選んでいるので(笑))

 
だって,何のために私はその「先生」と出会ったのでしょうか。

 
その「先生」は,何のために私にたくさんのものを授けてくれたのでしょうか。

 
私が何をしたらその「先生」は一番喜んでくれるのでしょうか。

 
「私は先生みたいになれません」と謙遜?あるいは臆することよりも,

いただいたものをより多くの人とシェアしていくことのためだと思うのです。

 
そして,私の「先生」は,それを何よりも喜んでくださると思うのです。

「先生」を尊敬しているからこそ,私は今こう考えます。

 
実際になれるかどうかは,ここでは第一の問題ではありません。

「ならなくてはならない」と感じて,最善を尽くすことに意味があると思うからです。

 
すばらしい「先生」に学んだのなら,giveしていただいたのなら,

私はそれを別の相手にgive backして行かなければならない。

そして,それが自ずと自分の為すべき役割となるのだと思います。

 
同時に,私がそうすることによってあの方々はきっと喜んでくださる

と思うと,また自分の「先生」の確信は増すのです。

そしてまた,こう考えられること自体すでに,

「先生」からいただいた恩恵であることに気づかされるのです。

 
 
(3)に続く