「シェアリングのプロセスにより経験としての深化が始まる」〜2025アンドレア来日ツアー感想番外編

nidaではあらゆるプログラムにおいて「シェアすること」を非常に大切にしています。
日常的な90分の通常クラスの後でさえ、お茶を飲みながらみなさんのシェアリングを発端に深い話になることもしばしば…

実は、日々の生活において、本当の意味で「シェアする」ということを体験している人は少ないのではないかと思います。
話していても途中で話を遮られたり、本当に感じていることは言えなかったり、
いつの間にか品評会、意見交換会、はてまた愚痴大会になっていたり…
そういうことが多いのではないのでしょうか?

nidaにいらっしゃるようになってからしばらくは「シェアリングがいやだった」と後から正直におっしゃる方は少なくありません(笑)
でも、なぜこれが言えるようになるかというと、そのシェアも含めて、シェアすることが楽しく、好きになってくるからです。
何の否定もアドバイスもされず、最後まで話せること、聴いてもらえること…
それがいかに自分にとって、周りにとって、お互いにどれほど大きな価値のあることなのかを実感し始めるからです。

それを学習し尽くした長年の生徒さんには、挙げ句の果てに、昨年2024年9月のバリリトリートで、「5日目の自由時間を減らして、もっとシェアリングセッションの時間を長くしてもらえませんか」と言われたほど(笑)
みなさん、いつまででもシェアしていたいくらいにシェアリング大好き♡になっていきます(笑)


以下に、今回、アンドレアの来日ツアー全プログラムに参加された、長年の生徒さんから、湯河原リトリート後、最初のnidaでの瞑想クラスを経ていただいたフィードバックを掲載させていただきます。

アンドレアのプログラムに関する直接的なフィードバックではありませんが(すでに彼女のシェアは2編アップ済です(笑))、これまで長年にわたりnidaのあらゆるプログラムで多くの「シェアリング」を経験された上での、それに関する深い洞察が記されており、ぜひともみなさんにも「シェア」したいと感じた次第です。

ぜひじっくりとご覧くださいませ〜!

すばらしい「シェア」を、いつも本当にありがとうございます。


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「昨日はお身体リカバリー中の所、メディテーションクラスをありがとうございました!

昨日は、視覚や聴覚による「ドライな感覚」というよりは、体温を伴ったどこか懐かしいような体感として、アンドレア先生に学び瞑想をプラクティスした時間が、ゆかり先生にも、クラスをご一緒する仲間にも、自分にも、それぞれの身体の内に経験として溶け込んでいる、さらにそれがリアルタイムでますます溶け込み、日常に染み出していることが感じられた素敵な時間でした。
身体を動かすときも、座って瞑想する時も、最後にシェアしているときも、囲炉裏を囲んで雑談するような互いの距離感がとても心地よかったです。
この場の空気感はまさにnidaの真骨頂ですね ^ ^

記憶(頭に残るものだけでなく、身体的な感覚も)もまだ鮮やかな、瞑想イマージョンやリトリートでの体験が essence/本質 に触れていくまさに特別な時間であったからこそ、その特別さと ordinary/日常 の間にあるトランジション的なレギュラークラスは、まさにこのタイミングで必要な、穏やかな心のスペースを作ってくれたようです。

このクラスの中で感じたこと、さららにクラスの前にリトリートのフィードバックについてお話ししていたこととも繋がるのですが、プラクティスの経験は、体験を共有した仲間との「場」を信頼して、言葉にならなければ言葉にならないなりに、その言葉にならない感じを含めてシェアする、そのプロセスにより経験としての深化が始まることを実感しています。

体験を言語化してシェアすることは、「わたしの体験」というひとつの対象に向けて集中することによって捉えた言葉、あるいは花びらのように自然に掌に落ちてきた言葉を、握りしめずに手離すような行為で、まさにoffering/お供え物 そのものだなぁと感じます。

「気付き」は、「気づいている」瞬間は、ただ受け取ったもの、ニュートラルなものなのかもしれませんが、「私」が「気付き」として認識したとき、その「気付き」は思考となり、今はそう思っていなくても執着の「種」となりうるものでもありますね。
良いとか悪いとかではなく、「思考」はシンプルにそういうも性質のものだ、ということを私たちはyogaプラクティスの中で繰り返し学び、体感しています。

自分にとって重荷なこと、忘れたいことだからではなく、むしろ大切にしたい、心の内に留めておきたい経験だからこそ、言語化(ある種の物質化)してもそれを握りしめず(必要なだけ握りしめたら)、仲間とシェアすることで、asking/お願いしたいもの として、あるいは深化した「気付き」として、期待せずとも自ずから降り注ぐのでしょうね。
「なんかそういうのものだ(これでいいのだ)。」と非常に腑に落ちました。
掌の砂が指の間から零れ落ち、砂浜に戻るように、「私」ではない、でもこの瞬間、私の掌にある砂のように「私の一部」となっていた「思考」に対して、「この思考をシェアしたい」と思考した時(思考に対して思考するとか、だいぶカオスですが。。)、その思考は半分くらい既に手離されてるのでしょうね。

それらの思考はアンドレア先生や、ゆかり先生やnidaの仲間の大きな掌に移りながら、また海に還っていくようなイメージが沸きました。

「話す」という言葉は、「はなつ」と同根と何処で聞いたような記憶がありますが、まさにそういうことなのでしょうね。

シェアすることの力に改めて感じ入っています。

素敵な場を本当にいつもありがとうございます!」