9/16・24 サロード演奏会によせて② 私がインド音楽に惹かれる理由 by 木村 吉寛
9/16(金)と24(土)の夜、nidaでは、インド古典音楽の演奏会を開きます。
演奏してくださるのは、若きサロード奏者 ディプトニル。
サロードといえばこの人!!という巨匠アリ・アクバル・カーンに
最年少5歳で弟子入りしたという逸材です!
そして,今回彼の来日を全面的にサポートし、
彼の前座としてシタールを演奏してくださるのが
ディプトニルの父を師として学び続ける 木村 吉寛さん。
真摯にインド古典音楽と向き合い、師に仕え、シタールを弾き続ける木村さんが、
ディプトニルの講演会によせて、またまた文章を寄せてくださいました。
彼の誠実な人柄やインド古典音楽の魅力がうかがえて、
演奏を聴くのがますます楽しみになりました〜!
第1弾と合わせて(こちら)ぜひお読みください!
*プロモーションビデオは→こちら
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「私がインド音楽に惹かれる理由」
私がインド音楽に惹かれる理由について少し考えてみました。
私の場合、チャンドラカント博士の人柄や音楽に惹かれたのが、そのきっかけです。
もし博士の生の音楽に出会っていなければ、インド音楽を学ぶこともなかったでしょう。
極端な話ですが、もしチャンドラカント博士がドイツ人だったら、ドイツ音楽を学んでいた可能性もあったわけです。
どんな国の音楽であれ、どんなジャンルの音楽であれ、結局、どんな人が演奏するのかというのが一番重要なことではないでしょうか。
演奏者の技量だけではなく、人柄まで全て滲み出てしまうのが音楽だと思います。
どんな音楽であれ、心に響くものは良い音楽だし、人を惹き付ける力があると思います。
とはいえ、やはりインド音楽ならではの魅力というのも、とても大きいと思います。
音と音の隙間の微妙なピッチの音を表現する緻密さ、時間や季節によって変わる旋律パターン、複雑なリズム体系などは、確かにインド音楽特有の魅力の一つと言えます。
常に即興で新しい音楽を創っていくところ、リズム奏者との掛け合いなども
ライブならではの楽しみの一つと言えるでしょう。
インド音楽は長い間、声楽を基にして発展してきた歴史があります。
では敢えて、声楽ではなく、楽器でインド音楽を演奏することの魅力は何でしょうか?
やはり、それぞれの楽器には、人間の声では表現できない独自の音色を出せる、ということがとても大きいと思います。
そして言葉にのせた音楽ではなく、純粋な音として表現される器楽に、私はより大きな可能性を感じています。
特にシタールやサロード独特の伸びるような弦の音色は、声楽を楽器で表現するために長い間工夫され、独自に発展してきたものです。
表現の幅が広いという点でも、現代のシタールやサロードは、最も適した楽器の一つだと言えるでしょう。
ここで、インド音楽を育んできたインドと、日本の文化的な側面についても少し考えてみたいと思います。
インドという国は、確かに日本とは気候や風土が違いますし、文化もかなり違います。
しかし、ヨーロッパやアメリカに比べたら、地理的にも文化的にも余程日本に近いように感じます。
というのも、日本の仏教はインド発祥ですし神道の八百万の神という、万物に神様を見出だす思想も、インドのヒンドゥー教にかなり近い部分があるのではないかと思うからです。
そして、日本の文化はやはり知らず知らずのうちに、仏教や神道的な思想に大きな影響を受けていると言わざるを得ません。
それは神社に参拝に言ったり、お寺に墓参りに行ったりということだけではありません。
もっと根底の普段はあまり意識しないような考え方の部分において、大きな影響を受けているということです。
というわけで、少なくとも西洋のクラシック音楽を聴くよりも、インド音楽を聴くことの方が、余程私たちには馴染みやすいのではないかと思うのです。
別に西洋のクラシック音楽を否定しているわけではありませんが、インド音楽の方が日本人や日本の伝統音楽との親和性が高いのではないかということです。
例えば、日本の伝統音楽である雅楽に見られる旋律やリズムの規則などは、インド音楽にかなり共通している所があるというのは、よく言われる話です。
雅楽は元々、ペルシアやインドなどの国々からシルクロードを経由して中国から伝わり、日本で確立したと言われています。
従って、そこにインド音楽の要素が見られるのは当然といえば当然の話かもしれません。
つまり、日本にはインド音楽を受け入れる土壌がすでに何百年も前から醸成されてきたと考えることもできるのではないでしょうか。
また、お祭りの時に親戚が集まって、一緒にご飯を食べたり、近所の家に招待されたり、そういった人と人との豊かなつながりを、私の知っているインドの人達は今でも大切にしています。
日本でも少し前までは、そんなことは当たり前の風景だったのかもしれません。
私が知らないだけで、地方に行けばまだそういう所もあるかも知れません。
そういう意味で、今の日本ではほとんど失われかけていると感じる、大切な人と人との温もりを、私はインド音楽の中にも感じているのかもしれません。
(コルカタ郊外。木村さんが弟子入りし,共に暮らすディプトニルらバッタチャルジー家の前にある池。夕立の直後。)
インド、インド、というと、最近はITのイメージなども出てきましたが、どうしてもその神秘的な側面にばかり注目が集まってしまいがちなのは、とても残念なところです。
確かにそういう部分もありますが、それは物事の一面でしかありません。
私もインド人の事が全てわかっているわけではありませんし、
インド人といってもその地域などによって多種多様なので、決して一概には言えません。
しかし、私が日本でインド人と付き合ったり、インドに2年間生活して少なからず感じたことがあります。
それは、大まかに言ってインド人は、感情的であると同時に、とても現実的で論理的な人々だということです。
もちろんインド人の論理と日本人の論理はかなり異なっていて、一概にどちらが良いとは言えないでしょう。
和を大切にして、感情的なことや場の雰囲気に流されがちで、一度決めたことをやり通すことに重きを置く日本的な論理は、平和な安定した世の中ではある程度上手く機能してきたかもしれません。
インドの場合、そういったものとは少し違う理詰めで、常に変化する状況に応じて柔軟に組み立てていく論理の力が特に際立っていると思います。
そういう意味で、昨今の色々と変化の激しい世の中において、特に今の日本で求められると思われる、変化に対応できる柔軟な考え方のヒントを、インド人の論理の中に見出だすことができるのではないかとも思うのです。
音楽は、一般的にとても数学的なところがあると言われます。
0の概念を生み出したと言われるインドは、数学も音楽も高度に理論的な側面があるでしょう。
そして、その感情的で現実的で論理的な部分を色濃く反映しているのが、インド音楽の旋律やリズムの規則、即興性だと思います。
そういった意味で、今こそインド音楽は、もっと日本で受け入れらて良いと思うのです。
長年蓄積されてきた、インド亜大陸の思想・宗教感などの全てを豊かに反映しているインド音楽に、私は何か壮大なものを感じ、惹かれているのかもしれません。