快 と 不快
あなたは、「好き嫌いしちゃダメ」って育てられました?
まあ食べ物で言えばね、食べられるものは多いほうがいいですよね
栄養はもちろん、人生の楽しみも増える。
人の好き嫌いということなら、誰とでもうまくやれた方がいいことも
確かに多いかもしれない。
そのほか教科でも仕事でも、いろいろソツなくこなせるといい場合は
多々あることでしょうね。
でも、わたしがここ数年とても感じているのは
いわばこの好き嫌いの感覚、すなわち、快/不快の感覚って超重要!!
ということ。
自分が何を、どこを、誰を「快」と感じ、逆に「不快」と感じるか?
そのセンサーって、決してガマンするべきものじゃないと思うんです。
わたしがここで話しているのはその感覚の後の対応についてではありません。
つまり、これは「不快」だなと感じたときに、それをはねのけていいとか、
蹴飛ばしていいとか(笑)文句をわめき散らしていいとか(笑)
そういう話ではない、ということです。
「快/不快」センサー、それ自体の重要性に焦点を当てています。
わたし自身の経験から言っても、自分にとって、何が、どこが、
誰が「快」なのかを知ることって、人生において決定的に重要だと
感じています。
だってね,「嫌っちゃいけない!」と考えて、
アタマでセンサーそれ自体に抑制をかけると、逆に「快」「好き」も
わからなくなると思うんですよ。
わたしたちって、何かを、誰かを、どこかを「快/不快」と
感じようとかしてそう感じるわけじゃないでしょう?
ただそう感じてしまうだけ。
それって、コントロールできない、無意識下の、
重要な根幹の部分から来るインスピレーションなわけですよね。
だとすれば、そのセンサーの感度が鈍ったらわたしたちは
いつまでたってもわたし自身を発揮できないのでは?
「快/不快」センサーの基準はみんなそれぞれ違います。
それでいいと思うんです。
だって、みんな違う人間なんですから。
みんな一様に「好き嫌いのないように」ってむしろおかしいでしょ?(笑)
あるいは,みんなの「好き嫌い」が同じだったら,おかしいでしょ?(笑)
自分が本当に好きなもの、望むことを知るためには、
あるいは、もっと言えば、その延長線上にある自分の人生において
与えられている使命のようなものを果たすためには、
まず、それがわからないとどうにもならないのではないでしょうか?
それを見つけるためには、「快/不快」センサーの感度こそ重要では!?
いまこそ,遠慮なくセンサーを活用すべきときでは、
わたし自身はそんなふうに感じています。
みなさんの「快/不快」センサー,感度良好ですか?
どれくらい信じて、活用されてますか?