わたしを通じて最善がなされるように(nida’s newsletter- no.25-より)
*こちらの記事は 2017.07.07配信の,nida’s newsletter~ living in the moment ~- no.25-より抜粋して引用したものを以下に掲載しています。
先々週初めから,久しぶりに喉をやられていました。
きっかけはおそらく,その前週に行った福岡ではやっていた喉風邪をもらったこと。
しかし,思い返せば,ここまでひどく喉を痛めたのは約3年ぶり。
実は3年前,半年間にわたって毎月39度の熱を出していました。
それが,毎回喉が原因の発熱だったんですよ。
で,半年ほど経って,ようやく考えたんですよね,
なんで毎回こんなに喉ばっかりなんだろうか?と。
おいおい今頃? って感じですけど(笑)
もちろん,西洋医学的に見れば,
何かのウィルスがついたとかいうことで終わりなんでしょうけどね,
それにしても,なんで毎回喉ばっかり??
もしかして,何か見えないものが喉に詰まってる??
…で,思ったわけです。
もしかして私何か言いたいことを言っていないのではないか,と。
心当たり,あったんです。
言いたいことははっきりとあって,
でも言えないなあと思って,ずっと抱えていました。
でも,結果はともあれ,思い切って伝えることにしたんです。
そしたら,なんででしょうね,
次の月から喉が痛くなる事はピタリとなくなりました。
以来3年間ずっとなかったんですけどね。
またこうして出てきたので,ふと思うわけです,
私また何か言いたいこと言えないのかなあ,と。
はい,今回もありました,心当たり。
でも,今回は前回と少し違うんです。
言いたいことを言えていない,というか,
そもそも何を伝えるか,決めかねていたんです。
その人に何かを伝えなければいけないことは確かなんです。
でも,伝えるべきことの結論が出ていなかったし,
それをどのようなことばで伝えるかも決めかねていたんです。
そのうちに,熱はすぐに下がったものの,
どんどん喉の調子が悪くなり,
声がうまく出なくなってしまった…
のは,クラスにご参加の方はご承知の通り。
あなたはこういうふうに伝える内容や表現を迷うこと,ないですか?
もしかしたら,そのとき,
わたしと同じように喉の調子が悪くなったり,
あるいは他にも,胸が詰まるとか,身体感覚が伴うかもしれないですね。
そして,そういう時,あなたはどうやって結論を出していますか?
正直言って,こういうケースは私には珍しいんです。
たいていの場合,わたしは,
ほぼ直感的に伝えたいことは内側から湧き出てきます。
ですから,あまり迷うことがないんです。
でもこういうふうに迷ったときは,とにかくいつも
「私にできる最大限は何だろうか?」
ということを考えます。
それは
『バガヴァッド・ギーター』で述べられているヨガそのもの。
「あなたの職務は行為そのものにある。
決してその結果にはない。
結果を動機としてはいけない。
また無為に執着してはならぬ。(2-47)
アルジュナよ,執着を捨て,
成功と成功を平等のものと見て,
ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。
ヨーガは平等の境地であると言われる。(2-48)」
(上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』(岩波文庫))
わたしがなすべき最大限をする。結果は手放す。
いわば,「人事を尽くして天命を待つ」ということです。
何日もわたしなりに,
今のわたしに出来る最善は何だろうか,と考えました。
答えはある方向に傾いていました。
でも,なぜかまだピンとこなくて,
伝えることにふみきれないままでいました。
ところが,1週間近く頭の隅で寝かせたあげく,
ある日全く間逆の答えを思いつきました。
でも,それでもまだしっくり来ませんでした。
その翌朝,ハッとする瞬間がやってきました。
問の立て方自体が変わったんです。
わたしはいつも,
「わたしにできる最大限は何だろうか?」
と考えてきました。
でも,その朝ふっと私にやってきたのは,
「わたしを通じてその人に対して行われる最善は何だろうか?」
という問い方だったのです。
問い方が変わったとき,妙に腑に落ちました。
わたし自身の意思や感情とは全く別にして,
わたしを媒介としてもたらされる
たぶん今のこの人に最も意味のある経験,
この人に最も伝えられるべきメッセージはきっとこれだ,と。
結局,私はその前日にやって来ていた,
何日も考えてきたのとは別の答えを相手に伝えました。
ちなみに,その結果はというと…
まっったく伝わりませんでしたよ(笑)
ふふふ。
でも,そう
ここから先こそがまさに私のヨガのpracticeの本番なんです。
伝わっても伝わらなくても,ただ同じように受け取ること。
もちろん,やっぱり感情的には難しいところもあります。
「執着」は,そう簡単には捨てきれません。
でも,きっとそれも必要なんです。
相手にとっても,そして何より,わたし自身にとっても。
わたしは,
「今のわたしを通じて行われる最善は何だろう?」
かという問いの立て方をしたときに,
私に自然にやって来たものに従いました。
納得して伝えました。
だから,後は手放すことだけ。
それが,
「結果を動機とせず」,
「成功と不成功の平等のものと見て,
ヨーガに立脚して諸々の行為」をするということなのかな
と,いまは感じています。
それをただpracticeしています。
以前,3つのmalaについて書いたことがあります。
*復習は→こちらへ
Karma malaー
行為の主体は,本当は,この「小さなわたし」ではない。
真の行為の主体は,「大きなわたし」。
egoを超えた,「大きなわたし」。
どうか,「大きなわたし」として
なすべきことを果たして行けるように。
どうか,このわたしという小さな個体を媒介に
可能な限りの最善がなされるように。
どうか,この「小さなわたし」が,最大限につかわれるように。
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こちらの記事は毎週金曜配信のnida’s newsletter ~ living in the moment ~より一部抜粋です。
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