あたりまえを問う(nida’s newsletter- no.26-より)

*こちらの記事は 2017.07.14配信の,nida’s newsletter~ living in the moment ~- no.26-より抜粋して引用したものを以下に掲載しています。


最近「考える」ということについて考えることがあります。

暇なんですかね(笑)


先日,newsletter no.24の冒頭やブログでも書きましたが,
私たちは本当に日々よくいろんなことを考えていますよね。

 *ブログは→こちら


私たちのマインドの働きはまさにチェーンソーのごとし…

いつもフル回転で

今日の夕飯から明日の予定から転職から子育てから
家族関係やパートナーシップに至るまで,常に考え続けている気がします。


ですから,ヨガのpracticeの中では,
そのマインドの働きをゆっくりにするということが
すごく大きな目的であることには,心から同意します。


でも,同時にこうも思います。


いわば,わたしたちが日々考えているいろいろなことのほとんどは,

ある一定の枠組みの中で,

つまり,

「あたりまえ」のものを「あたりまえ」としてくくっておいて,

その枠組みの中でのフル回転にとどまっているんじゃないかな,と。


その,自分が「あたりまえ」と思っていること自体を問うことって
あんまりしてない人が多いんじゃないかな,と。

もちろん,わたし自身も含めて。


だって,日々すごいスピードで進んでいきますもんね…

だから,いろいろ「ショートカット」するでしょ?


歯磨きはこうやってするんだ

から,

家族とはこういうものだ

私はこういう人間だ

世界とはこういうものだ


…に至るまで,

いろいろなことを「あたりまえ」とくくることによって
それらについていちいち考えなくても済むようにして,

その分,別の様々なことを考えるようになるのは
いわば自然なことですから。


だから,すごく本質的なこともあえて考えずに,日々を過ごせてしまうわけです。


先日,友人と話していたら,こんな話題になりました。


彼女が旦那さんに,

「僕たちは今こういうステージにいると思う」

みたいな話をされたんだそうです。


ところが,彼女も私も,
いろんなことに興味を持って疑問を持ってしまうタイプでして(笑)


で,彼女は旦那さんに,感情的にではなくフラットにこう聞き返したそうです。


「それは誰が決めたの?
どうしてそう思うの?」

と。


そしたら,旦那さん,どう反応したと思いますか?


キレました(笑)


何言ってんだ,そんなの当たり前だろ!みたいな感じで

感情的になったそう。


私自身も,こんなことがありました。


相手が出してくれたものを見て,

シンプルにわたしには分からないことがあったので,

これはどういうこと?
どういう意図で書いたの?

って,フラットに聞いたんですね。


そして後日,こんなふうに言われました。

質問ばかりで疲れる,と(笑)

そんなに考えてません,と(笑)


わたしたちは,

自分が「あたりまえ」だと思っていること,
感覚的にそうだと感じていることについて,
あえて問うことをあまりしません。


なぜでしょうか?


たぶんね,めんどくさいんですよ(笑)

だから「ショートカット」してるんですから!(笑)


考えても答えが出なかったり,

そのことで逆に行き詰まってしまったりするし。


特に,そこに自分に都合の良い意図が
意識的あるいは無意識的があったりする場合は,

自分の中の不都合なもの,汚いもの,整理できていないものを
見なきゃいけないこともある。


だから,自分にとって「あたりまえ」なこと,
あるいは「あたりまえ」としておきたいこと自体に触れるような問いは,

基本的に不快なんじゃないんでしょうか?

だから,基本的に掘らないようにしてるんじゃないでしょうか?


だからこそ,それに触れられるような出来事や問いを向けられると,
感情的になったりするのだと思います。


私自身も,人から
あーそんなこと考えてもみなかったなぁ(汗)という問いを
向けられたりすることがあります。


すごく「あたりまえ」のことなのに,
いえ,だからこそ,考えていないんです…


で,答えに詰まりながら改めて考えてみることになります。


あるいは,ある出来事や経験をきっかけに,
自分の「あたりまえ」を疑うことになる場合もあります。


ヨガ哲学が私にいつももたらすのは,

まさにこの

「あたりまえ」を問う

ということな気がします。


「あたりまえ」という枠組み,ブラックボックスに入れておいて,

考えないで来たことを,考える対象に挙げてきやがるわけです(笑)


世界の見方を根底からひっくり返されたり,

自分の弱さや,いかに自分自身が自分自身を閉じ込めてきたかということに

直面させられたりします。


それは時にとても痛いです…


自分が隠してきたことや見ないできたことを,えぐられるわけですから。


でも,その先にこそ「意識の自由」があると思うのです。


思考はあくまでも道具です。

ことばは私たちを最終的な目的地まで
ずっと導いてくれるものではないとわかっています。


それでもこうした問いは役に立つはず。


だからこそ,先人たちはなるべくヒントを残してくれた。


「ヨガ行者は,自分たちの置かれている世界について綿密な考察をし,
しかもそれをことばによって表現した。

ヨーガは本来実践なのではあるが,
世界観(現状認識)のため,
さらにはその実践の過程におけるさまざまな経験を伝えるために,
精緻な哲学を打ち立てることができたのである。」(p.59)


「哲学はことばを大切にする。

インドは究極のものが,ことばを超えたものであることを知っている。

それでもインド哲学は,ことばによる挑戦をやめない。

ギリギリのところまでことばによるシステムをつくりあげていって,
最終の段階で沈黙するのである。」(p.64)

(立川武蔵『ヨーガの哲学』講談社現代新書)


感情的に受け止めてもいいと思うんです。

ただそこに感情が反応した,ということ自体に着目したらいいと思うんです。


答えが出なくてもいいんです。

答えがことばで表現できなくてもいいんです。

ただ答えが出ない,ということ自体に気づいたらいいと思うんです。


「あたりまえ」についての問いは,それだけで充分に価値がある。
わたしは,そう感じています。


そして,
自分が気づいていなかった枠組みにそうやってヒビが入ること自体が,
その先につながると思うんです。


わたしたちはどこまで行っても,
いわば「入れ子式」の「あたりまえ」の枠組みに
囚われているのだと思います。


でも,根気強くそこにヒビが入ることに耐え,
一つ一つそれが崩れていくのを見守ることで,

私たちは少しずつ自由になっていくのではないでしょうか。

本来あるべき状態へと近づいていけるのではないでしょうか。


だから,わたしは,

わたしにやってくる「あたりまえ」への挑戦状を素直に受け取ることを,

自分自身に「あたりまえ」を問い続けることを,

冷静に続けていきます。


あ,でも,

人にそれを問うときは覚悟してくださいね,

けっこう痛い目みるかもしれません!

(…て,これは,誰よりもわたし自身への教訓です(笑))

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こちらの記事は毎週金曜配信のnida’s newsletter ~ living in the moment ~より一部抜粋です。
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