高野山リトリート2025感想①「nidaリトリート最高峰の一つと言っても過言ではないと感じています」

2025/7/5-7,昨年に続き2回目となる高野山リトリートを実施いたしました!
おかげさまで11名の女性のみなさまにご参加いただき,活気あるリトリートとなりました。
ご参加本当にありがとうございます!!
このうちリピーターさんは2名。
リピート参加を見越して,昨年と少しプログラムを変え,1日目は高野山の麓の神社・お寺を訪ねるバスツアーも入れたのですが,これがまた大好評でした ^ ^
*今年のプログラムについては→こちらをご参照くださいませ。
個人的には,このリトリートの最大の支えは,昨年同様ご縁あるすてきな宿坊さんにお世話になれたことだと感じております。
もはや友人と呼ばせていただいていいのではないかというお付き合いとなってきたご住職のお母さまをはじめ,今後のご活躍がますます楽しみなご住職や奥様,あたたかい僧侶のみなさま…本当にたくさんお世話になり,ありがとうございます!
みなさまのサポートなしには成り立たないリトリートでした(泣)
実質的なサポート以上に,今や高野山にいつでも安心して帰れるホームができた感覚が大きな支えとなっていて,ここなしにはnidaの高野山リトリートはないなーと感じています。
このすばらしいご縁に,導いてくださったお大師さまに,ただひたすら感謝です。
今年もみなさんからも大変ご好評いただき,すでにnidaの定番リトリートとなってきた高野山リトリート。
もちろん来年も実施予定ですよ〜♪
すでに2026/8/29(土)-31(月)で仮予約をしてまいりました。
来年も/こそは!というみなさま,どうぞスケジュールを空けて,楽しみにお待ちくださいね (^w^)/
それでは以下,3回に分けて,参加者のみなさまから寄せられたフィードバックをご紹介させていただきます。
いつもすばらしい感性あふれる感想をお寄せくださり,本当にありがとうございます! (ToT)
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1) 今回のリトリートの満足度を5段階でお答えください。(5:すごく良かった 〜 1:不満だった)
全員より… 5:すごく良かった
「大満足です」
「5段階基準なのに「100点!」とかコメントしちゃいますが、今回は数値的に表現することが難しいです。(←既に「5」と回答済みなので、自分で趣味的に困難にして楽しんでいるだけなのは、知っています笑)
稀代の天才・弘法大師 空海さんによって開創され、1200年以上の時を超え現代に至る信仰と祈りの地・高野山が舞台ということもあり、土地そのもののスピリチュアリティが大変に高いことが感じられる高野山における、ゆかり先生渾身のリトリート!ということで、総合的な満足度が完全にバグっているからです。(アニメのドラゴンボールで相手の戦闘力や「気」みたいなのが凄すぎてスカウターが壊れてしまう的なイメージ??←何かちょっと違う気もする。。笑)
nidaのリトリートは、参加したひとつひとつが人生の宝物レベルの体験なのですが、その中でも高野山リトリートは自己探究的な学びの質と深みにおいて、nidaリトリート最高峰の一つと言っても過言ではないと感じています。
素晴らしい体験をありがとうございました。」
「初めての高野山でしたが予想以上に充実感があり大満足です。」
「いつもの10!」

2) 今回のリトリートで特に良かった,心に響いた点・内容はありますか?それは何でしたか。
「高野山の前に、昨年のリトリートでは訪れなかった、〜神社、〜院という弘法大師に縁のある場所を訪れたこと。
厳かな力強さを感じる高野山の聖地が、山を登り切る手前ののどかな自然にある、穏やかで柔らかな空気をたたえた神社や弘法大師のお母様が住まわれたお寺に守られているように感じ、よりこの場所に魅力を感じました。
1200年以上の歴史ある地を知り尽くすことはないと思うと、壇上伽藍、金剛峯寺、奥之院、高野山の森を再び訪れられることもうれしく、ヨガ仲間とだからこそ共有できる感動がたくさんありました。」
「お大師さまにゆかりのある、寺院と神社に参拝できたこと(車移動でないと訪れること難しい)
訪れるまで、全く知りませんでした
でも、こちらを先に参拝・訪れることで、高野山というこの土地のエネルギー(〜さんもお話ししていましたが、女性的なゆったりとした包み込む感じと、男性的な凛として律するた感じ、そして神聖な)を感じ、畏怖を持つことができました
奥之院で、水行ができたこと
大変貴重な体験でした
頭から水をかぶるときは、「南無大師遍照金剛」しか唱え考えることができませんでした
自分でなんとかしよう、コントロールしようという思いが勝手に手放されるというか
終わった後は、スッキリ浄化されたような、目が覚めるような、景色も違って見え、何かにお任せすること身をもって体験させてくれたという感じがしました
朝、壇上伽藍を散歩、その後大塔前でヨガができたこと
日本中の多くの方が訪れてみたいと願う場所、空海さんが構想した立体曼荼羅の中で、自分とその土地のエネルギーを循環させていたんだと、びっくりするというか怖しいというか、今更ながらドキドキを感じています」
「全体として素晴らしかったのですが、どれかひとつだけを上げるならば、個人的には壇上伽藍の朝ヨガが最も印象深いです。
昨年は雨天で実現できなかったので、特別な感動もあったと思います。
呼吸に導かれてゆったりと身体を動かすうちに、朝日が昇るのに伴って周囲に光が溢れるのを感じ、高野山の清浄な空気を吸い込む程に個としての「私」が分解され、吐く息と共に「大いなるもの」に溶けていくような感覚に全身を委ねると、呼吸し解放されているのは「私」だけでも一緒にヨガをしている仲間だけではないことにも気づきました。
鳥も木も、生物だけではなく空も石も、音も、あらゆるものが呼吸し「いのち」を輝かせている!
そのイメージはどこからやってきたのかわからないけれども、揺るぎない体感が、全身に満ちてきました。
眼前に聳えたつ根本大塔は、物理的には「建物」という無生物であるにも関わらず、朝日を浴びて一層生々しく朱色に輝き、躍動する「いのち」の現れのような圧倒的な存在感を放ち、瞬間的に(写真でしか見たことのない)岡本太郎氏の「太陽の塔」のイメージが重なったりもしました。
根本大塔は昨年も目にしてきたはずなのに、そのような印象を持った記憶はないので、興味深いことです。
シャバーサナに入り、身体を横たえると、背中で感じる小石の感触から「粒」のイメージが膨らみました。
個たる私の心身「あ(我)」が微細な粒子となり、阿字観で言われる大いなる「あ(阿)」へとと溶け込んでいくような感覚と、無数のいのちの輝きに満ち、同時に無限の空白を感じさせる「あ(阿)」のエネルギーを個たる「あ(我)」に再構成されるような感覚に包まれる。。
アーサナプラクティスのスケール感に呼応して「宇宙の大いなる呼吸」に意識を委ねるかのようなシャバーサナでした。
生きとし生けるものを思って空海さんが瞑想し続ける聖地、「生ける曼荼羅」そのもののような高野山の「いのち」をアーサナプラクティスを通して存分に体感することができたように思います。」

「全部良かったです!!!!想像以上。
特にあげるなら…
・1日目に、〜院さんでお話を伺い、実際にお寺の中の金剛杵な大きな数珠などを触らせていただけたこと。
副住職の方のお話がすごくいきいきとされていて、また、すごく人間らしい空海さんの一面もお聞きでき、最初からワクワクがとまりませんでした。
・朝の散歩
明け方、空の色が刻々と変化し、鳥の声が聞こえる中、静かに根本大塔のまわりを散歩し、瞑想したこと。
朝起きて、言葉を発さず、思考が優位になる間もなく、無意識で導かれるように散歩に出る
鐘の音、自然の音、遠くで唱えているマントラ
『移り変わっていくもの、変わらないもの ただ安心して、すべてのものが許されている』と感じました。
家での瞑想時に、その時のことを思い出して瞑想すると、スッとその空間に戻れる感じがします。
・朝ヨガ
根本大塔の前での朝ヨガは、すごく自分が拡がっている感じだった。
(空気とも、高野山全体とも、一緒にヨガしている皆とも、いのちすべてとも繋がる)
最高に気持ちよかったです!
・水行
手指の先まで血行が良くなって、全身が生まれ変わったような爽快感!
そして、こんな素晴らしい場所で水行できることに本当に感謝です。」
「まず高野山という場所、パワーが素晴らしかったです。
信仰が根付いている場所独特 澄んだ空気を初日 神社、お寺から感じることができました。
また、壇上伽藍 前でヨガをする経験 格別でした!
青空の下で伽藍を見上げながらポーズを取るのが気持ちよかったです。」
「最初の日に参拝の〜神社で、まず歓迎されているかの様にとてもいい風が吹いたことや、女性との縁の深い〜院での副住職のお話から心が動き、感謝と慈悲のキーワードから涙が溢れ続けました。
日頃の自分の母への言動や行動に目向けられ、もっと素直に優しくしたいに心が向きました。
また家で待つ柴犬むぎを思い、ゴンちゃんの話にもうるうるしました。」
「マイクロバスで高野山にまつわるスポットを案内して頂けたこと。
水行で濡れた衣類を手作業で洗濯・乾燥・取込みまでして頂けたこと。」
「奥之院
改修工事がされていたものの、空海さんの気配がすることにはなんら変わりなく。本当にこの世ならざる場所という感じでした。
生身供のお時間に立ち会えたことも本当にありがたかったです。
瞑想が深い人のそばで瞑想すると入りやすいですが(nidaとかわかりやすいと思いますが)、奥之院はまさに「誰か瞑想が深い方が瞑想をしている気配」を色濃く感じる場所でした。」
「壇上伽藍前での朝ヨガ
朝日を拝みながら、高野山の神聖な空気の中で行うヨガはこの上なく気持ちよかった!
周りの空気に溶けていくような、一体化するような感じがした。
とても贅沢な時間だった。」
「高野山という神聖な場でリトリートができたことは大変有り難く、自分を見つめ直すには絶好の場所でした。
空海さんが仰っていたように(本によると)
「言葉より体験、感じることが大事」
ということで予習はほどほどにリトリートに臨みました。
修験場という言葉から連想される厳しさはなく、何もかも包み込んでくれるような懐深い、おおらかなエネルギーを感じました。
特に印象に残った場面は、壇上伽藍でのヨガは小さな個が大いなる存在に溶け合っていくような感覚を覚えました。
奥之院での水行は、空海さんが見守ってくれてるような感覚で、そこまで厳しさは感じず、ある思考のクセを手放すのによいプラクティスの場になりましたし、水行後は頭すっきり視界もクリアになり心身共に浄化されました。」

3) このリトリートの中,あるいはその後も含め,何か変化がありました/ますか?
また,それはどのような変化でした/ですか?
「度々高野山で過ごしたときの心の状態を思い出します。
御廟の前は、どんなに多くの人々が訪れても、ゆるがない静かさと誰をも受け入れてくださる大きさを感じます。
その感覚に戻りやすくなっているように感じます。」
「「祈り」のもつエネルギーというか人の態度というか、ままならない、コントロールできない人生をいかに生きるか「祈る」という、「お任せする」という行為で救われることがあることなんでしょうか、引き続き感じてみたいと思います」
「今回のリトリート中に、高野山の地が「世界の『臍』」という言葉が浮かび上がり、同時に高野山が私自身の「精神的な『臍』」でもある」ということが腑に落ちた体感があったことです。
高野山は日本における密教の聖地ですが、そのような知識的理解を超えて、高野山の地と私自身の「魂」のようなもの繋がりや共鳴を感じられたこと、と言ったらよいのでしょうか。(これも、だいぶ言語化の難しい領域ですね。。)
高野山が「世界の『臍』」という言葉が湧き上がってきたのは、リトリート2日目の夜、初日からその時点までのプログラムを通して体験したことを振り返った時のことでした。
当日朝の根本大塔の前でヨガをした時の圧倒的な体感や、奥之院での生身供の様子、水行や阿字観、また、前日に参拝した慈恵院の印象や昨年のリトリートの記憶など、実体験を伴う様々な要素が統合されて、直観的に「臍」という言葉が出てきました。
「臍」で高野山と繋がっている、言葉は頭で考えて出てくるものではなく、体感を伴う気づきなのでしょうね。面白いです。」
「・朝、今までよりも早起きできるようになった。
朝、ふっと湧いてきた感覚を大切にしたくて、できるだけ朝はスマホなどを見ずに過ごしています。
・リトリート中、色々な浄化が出てきた方もいらっしゃったかと思います。
私は、頭がガンガンする感じが断続的に続きましたが、今は少し落ち着きました。
色んな処理が頭で追いついていなかったのかもしれません。
高野山の浄化のパワー、すごいです・・・!
また、リトリート後、そのまま大阪で一泊し、翌日は義理の父の家に行きました。
その時に、高野山に行ったお土産話をしたのですが、お父さんからも、昔、高野山に行ったことがあると初めて聞き、その時のことなど、普段しないようなジャンルの話もできて、ほっこり嬉しくなりました。」
「弘法大師様が生きたまま奥之院に入られた。自分が将来的にも信仰対象になるだろうことを知っていたからだろう。というお話をきいて、自分のやるべきことに真摯に向き合っているだろうか、と問いかけられているようでした。
また、お寺、神社、神仏がいる建物とお祈りする自分という関係を体験することが多く、ふと自分が一方向しか見られてないと気付かされました。
(すいません、言葉にするとよくわからない感じなのですが、神仏がいる側から自分を見る視点が分からなくて当然であるように、日常で自分と誰が対峙したときに相手の気持ちや状況を考えず、なんで私ばっかり! の思考になってたんだなと。でも、それってもったいなくて、相手の気持ちを想像することで変わることがあるのではと思ったのです)
帰ってきて、ちょっとしたイライラしたときに、ふと思いとどまるきっかけをいただいています。
すこしやさしくなれました。」
「風邪が回復するにつれ、漠然とあった不安が減っている気がします。
落ち着きが増しています。」
「変化ありました。
同行二人、どんな時もお大師さまが隣に居て下さることが理解できました。」
「実は喉の調子が悪く、シェアリングもずっとパスさせていただいていましたし、帰ってからも声帯炎との診断でずっと話さないおかげで、勝手に思考が静かになっています。
普段はやはり頭の中でも実際も、話しながら思考をしていて、そのおしゃべりがうるさいのだなと体感させられました。
リトリート中はみなさんにご迷惑をおかけして申し訳ないなという気持ちと、みんながあったかくて嬉しいなという気持ちを両方感じていました。
結果的には「一人沈黙の行」みたいになってしまいましたが、今の私には必要だったなと思います。
仕事柄、自分の価値を「喋れる自分」においていたのだなということを、実感しました。
自分の内と静かに向かいあう良い機会になっています(沈黙の行、継続中)」
「〜院でお大師さまとお母様のお話を聴いたことで、改めて私と両親との関係を思い起こしたり、確認するきっかけになった。
それはきっとこれからの私の人生にとって必ず大きな変化をもたらしてくれると確信している。」
「今回のリトリートでは以下を最低限の意図に設定してました。
“自らを見つめ直し
既存概念に縛られた思考をリセットする”
“流れに委ねフラットに物事を受け入れる”
それらは普段からの意識しているけど、いつも表面的にとどまっているのが課題で、日常生活とスマホから離れて高野山のエネルギーに浸りきり、一度まっさらになりたいと思いました。
まっさらになって何かが湧いてくるのではと少しの期待があったわけですが、
リトリート中、さまざまな場面で
「丁寧に真摯に自らに向き合いなさい
答えは自分の中にある」
と何度も言われてるような気がしました。
今すぐ何か結果を求めるのではなく、ひたすらに探求続けることの大切さを諭されたような気がします。
具体的に声が聞こえたわけではなく、そんな気がしてるだけなのですが…
何かを得ようとするのではなく、ただ目の前の物事をフラットに受け入れ
瞬間瞬間の体験を丁寧に体で感じ、湧いてくる想念を丁寧に観じる…
“いまここを丁寧に感じ観じる大切さ”をあらためて認識させられました。
(アンドレアのリトリートのときも同じような気付きがありました)」
