あたりまえを問う(要約版)

私たちは本当に日々よくいろんなことを考えていますよね。

 
ただ,わたしたちが日々考えているいろいろなことのほとんどは,

ある一定の枠組みの中で,

つまり,

「あたりまえ」のものを「あたりまえ」としてくくっておいて,

その枠組みの中での思考にとどまっているんじゃないかな,と。

 
先日,友人が旦那さんに,

「僕たちは今こういうステージにいると思う」

みたいな話をされたんだそうです。

で,彼女は旦那さんに,フラットにこう聞き返したそうです。

「それは誰が決めたの?どうしてそう思うの?」

と。

そしたら,旦那さん,

何言ってんだ,そんなの当たり前だろ!みたいな感じで感情的になったそう。

 
 

わたし自身も,こんなことがありました。

相手が出してくれたものを見て,シンプルにわたしには分からないことがあったので,これはどういうこと?
どういう意図で書いたの?

って,フラットに聞いたんですね。

 
そして後日,こんなふうに言われました。

質問ばかりで疲れる,と。
そんなに考えてません,と。

 
 
もちろん,わたし自身も,人から

あーそんなこと考えてもみなかったなぁ(汗)という問いを向けられたりすることがあります。

 
 
そう,わたしたちは,

自分が「あたりまえ」だと思っていること,感覚的にそうだと感じていることについて,あえて問うことをあまりしません。

なぜでしょうか?
 
 
たぶんね,めんどくさいんですよ(笑)

だから「ショートカット」してるんですから!(笑)

考えても答えが出なかったり,
そのことで逆に行き詰まってしまったりするし。

特に,そこに自分に都合の良い意図が,
意識的あるいは無意識的があったりする場合は,自分の中の不都合なもの,汚いもの,整理できていないものを見なきゃいけないこともある。

だから,自分にとって「あたりまえ」なこと,

あるいは「あたりまえ」としておきたいこと自体に触れるような問いは,

基本的に不快なんじゃないんでしょうか?

だから,基本的に掘らないようにしてるんじゃないでしょうか?

 
 

でも,ヨガ哲学はいつもわたしに,

「あたりまえ」という枠組み,ブラックボックスに入れておいて,考えないで来たことを考える対象に挙げてきやがるわけです(笑)
 

それは 時に とても痛いです…

 
自分が隠してきたことや見ないできたことをえぐられるわけですから。

だから,感情的に受け止めてもいいと思うんです。

ただそこに感情が反応した,ということ自体に着目したらいいと思うんです。
 
答えが出なくてもいいんです。
 
答えがことばで表現できなくてもいいんです。
 
ただ答えが出ない,ということ自体に気づいたらいいと思うんです。

「あたりまえ」についての問いは,それだけで充分に価値がある。

わたしは,そう感じています。

 
そして,自分が気づいていなかった枠組みにそうやってヒビが入ること自体が,その先につながると思うんです。

 
わたしたちはどこまで行っても,いわば「入れ子式」の「あたりまえ」の枠組みに 囚われているのだと思います。

でも,根気強くそこにヒビが入ることに耐え,一つ一つそれが崩れていくのを見守ることで,私たちは少しずつ自由になっていくのではないでしょうか。

本来あるべき状態へと近づいていけるのではないでしょうか。
 

photo by sono aida